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ケーシー松原の吃音矯正
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吃音矯正 ドモリの世直し運動
羊頭狗肉・インチキ矯正所打破!
当方は最新の脳生理学を取り入れた治療を行っています。
吃音は精神障害ではなくして機能障害であると考えます。
それには心理療法ではなく構音的なリハビリテーションが必要です。吃音矯正は科学と論理学が結合した的確なものでなければなりません。吃音矯正は吃音者本人が正しい知識のもとに、医者になり患者になりして、自ら治してゆくことが基本です。そのためには自己観察と自己コントロールに基づくパターンの切り替え、つまり悪いパターンから良いパターンへと切り替える一種のバイオフィードバックがきわめて重要になります。それから具体的な矯正法に入るのです。
10冊のレジュメ(テキスト)を用意しています。
1)基礎編…3冊(吃音の科学的理解と客観化など)
2)実践編…5冊(呼吸法、速度法、弛緩法、雑法、処方)
3)教養編…2冊(吃音者と言語、吃音者と人生)
この世界では古い考え方や俗説が大手を振ってまかり通っているのです。そこで教える側に立つ者は最低二つの条件をクリアしなければなりません。
1)吃音矯正の正しい体系的な理論を持ち合わせているか否か。
2)その理論に基づいて自他共に実績を上げて来たかどうかです。
吃音に関しての無知・偏見・欺瞞・誤った考え方と戦うことが、私の使命です。民間矯正所でひどい目にあった方、また何の役にも立たなかった所へ行かれた方、御相談に乗ります。どんどんご連絡下さい。
◎連絡先を申し上げます。
TEL&FAX:049(258)3218
E-mail:info@asutoraia.com
ホームページアドレス:http://www.asutoraia.com/
★矯正訓練は池袋を中心にマン・ツー・マンないし、合同で行います。
★大阪教室も開講しています!
1ヶ月に1回、全10講座。地方の方もムリなく通えます。2、3人まとまれば、遠方でも出張可!重症の方は、別コース有し。
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★ケーシー松原の研究発表レジュメ
「いかにして吃音を克服するか」
1)基礎編・・・吃音者の心得
  1. 「吃音の科学的理解と客観化」
  2. 「吃音治療の概念と指針」
  3. 「吃音とストレス」
 
2)実践編・・・矯正方法
  4. 「呼吸法」
  5. 「速度法」
  6. 「弛緩法」
  7. 「雑法」
  8. 「処法」
 
3)教養編・・・吃音者の教養シリーズ
  9. 「吃音者と言語」
  10. 「吃音者と人生」
 
 
10回の講座のそれぞれのレジュメのごく一部をご紹介させて頂きます。
単元ごとにその都度レジュメをお渡しし、勉強と練習をしてゆきます。
場合によっては、講座と講座の約一ヶ月の間に宿題を課したり、レポート作成をお願いする場合もあります。
(以下レジュメのごく一部の紹介です)
レジュメ1) 「吃音の科学的理解と客観化」 (一部抜粋)
・コミュニケーショントラブル
障害の分類 対処の仕方とその結果
区分 内容 トラブル 対処の仕方 結果 人格
二次的障害
(派生的)
不安障害 社会不適応
主観的
客観的
マインド・
コントロール
自己欺瞞
(合理化機制)
ドモリ教信者
(ドモリの裸の王様)
一次的障害
(本質的)
言語障害
(間歇性)
発話機能不全 リハビリ
テーション
吃音改善 ドモリの希望の星
(ニューヒーロー)
・吃音の発現と閾値
吃音の発現と閾値
閾値は吃音者にとって心身の内外に渡る状況の変化あるいは『言いやすい』、『言いにくい』といった言葉の難度によっても変化する。
・心理療法のモトになっている精神障害としての吃音の位置付け
心理療法のモトになっている精神障害としての吃音の位置付け
吃音を発話時の機能上の障害と考えずに、恥ずかしさやストレスからくる神経質の一種として分類されている。
○いわゆる精神的なものという俗説につながる
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レジュメ2) 「吃音治療の概念と指針」 (一部抜粋)
・吃音矯正の諸原則
=ピラミッドの法則=
1. 今までと話し方そのものを変える。
2. ドモらない自信のある所まで話し方のレベルを下げ、そこから始める。
3. ピラミッドの石を乗せてゆくように、ステップbyステップの積上げ方式をとり、決してあせらない。
4. ステップの進行につれて練習の仕方を変えてゆく。
5. 日常の言語生活全てが矯正練習である。(ドモリに休息はない。)
6. ドモってはいけない。(双六は振り出しに戻る。)
7. 矯正に自身がつき、一定レベルに達したら、日常の言語体験以上のものに積極的にトライしてみる。
 
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レジュメ3) 「吃音とストレス」 (一部抜粋)
・ストレスの回路
ストレスの回路 新しい脳(大脳新皮質)・・・ストレスをストレスとして判断、たとえば恥を恥として知る。
古い脳(大脳辺緑系、間脳その他)・・・感情や情動、ストレス反応の中枢。
新しい脳と古い脳は互いに影響し合う。
新しい脳にある言語野や運動野も当然古い脳の影響下にある。
※この図はイメージモデルに過ぎません。
・方法ではなく習慣でなおす
・敢えて火中の栗を拾う
微温的、自己欺瞞、逃避、モラトリアム、怯懦、怠情、お宅、偽りとごまかし 秋霜烈日、恥辱、屈辱、苦闘、忍耐、試行錯誤、破廉恥、哄笑、ああ無情
・美の位階
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レジュメ4) 「呼吸法」 (一部抜粋)
・吃音時に詰まる箇所とその対策
吃音時に詰まる箇所とその対策
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レジュメ5) 「速度法」 (一部抜粋)
・側性化
側性化
言語機能と音楽機能の偏向性
言語機能と音楽機能の偏向性
○脳の処理の次元では話す事と歌う事は同じではない。
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レジュメ6) 「弛緩法」 (一部抜粋)
・細胞と情報伝達
情報は神経細胞の電気現象という形で伝わっていく。
・インパルスの伝道
細胞と情報伝達
(これはイメージ図です。)
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レジュメ7) 「雑法」 (一部抜粋)
・矯正法の分類
(放任層) 無関与
ナンセンス層 栄養療法、除霊、信心、ショック療法
悪化層 ホッピング・スピーキング
緊張型肉体コントロール・不自然口型法
強制息出し訓練・早口言葉
ごちゃまぜメニュー・高難度文章発音
無意味層 各種心理療法・行動療法・催眠療法
自律訓練法・リラクゼーション・禅・文章優先訓練
境界層 ユックリリズム法・注意転換法
無意味音節付加法・講談・浪曲
応用層 雑法・朗読・模倣対話法・復唱法
基本層 呼吸法・速度法・弛緩法
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レジュメ8) 「処法」 (一部抜粋)
・四つの要素
四つの要素
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レジュメ9) 「吃音者と言語」 (一部抜粋)
・阿吽の呼吸
阿吽…万有の始源と究極とを象徴する言葉 ((あ)は天を表し(うん)は地を表す。)
歌は(あ)(うん)の発声が上手に出来ればたちまち上達するのである。
発声法をマスターしてしまえば、歌ばかりか会話も魅力的になり、人格までが成長する。
(あ)(うん)の発声の仕方と心掛ける点
三波春夫「船方さんよ」
おーい船方さん船方さんよ
土手で呼ぶ声 きこえぬか
姉さかぶりが 見えないか
エンヤサーと まわして
とめておくれよ
船足を 船足を
皆んなで歌おう!!
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レジュメ10)「吃音者と人生」 (一部抜粋)
◆女性の二つのタイプ
女性の二つのタイプ
 
コミュニケーションにおける留意点
  1.相手におかまいなしに自分の興味のあることばかり言わない。  
2.相手を尊重し、相手の言い分にも興味を示す。  
3.相手と自分の話のやりとりで"つなぎ"の言葉をうまくみつける。  
4.機知ある会話、笑いの種を探す。  
5.言うべき時には確信を持って自分の意見をはっきり述べる。  
 
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◆ケーシー松原の吃音履歴書
ケーシー松原の吃音履歴書
○青少年期、大ドモリとして苦しむ。
○池袋の「治療教育研究所」に通い、椿錦二先生の薫陶を受ける。
○その後、吃音研究と治療のためのボランティアグループ「言研」を主宰。
○「東京言友会」で「ドモリは直る!」と壇上から叫び、引き摺り下ろされた事をきっかけに、プロとして独立する。
○現在、吃音矯正に携わる傍ら、フリージャーナリスト、風俗研究家として活躍中。
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★すべての道は脳へ(ローマへ)通ず!
私が「脳と吃音」の因果関係を最初に取り上げ、本格的に提示しました。今では吃音研究の常識です。
1) 吃音者の心得五ヶ条
2) 吃音矯正の科学的用語の確立
3) ドモリの世直し運動
4) 公開討論
5) ケーシー・ワールド
1)吃音者の心得五ヶ条
(1) 筋道を立てて考える(理論的思考)。→荒唐無稽な俗説に惑わされない。
(2) 物事の真贋(本物と偽者)を見極める→羊頭狗肉でなくマトモな矯正所へ行く。
(3) 己れを知る。→自分を反省しなければ人は向上しない。吃音矯正も同じ。「人は己れに克つを以って成り、自ら愛するを以って敗るる。」西郷隆盛
(4) 恥をかかずして吃音矯正はありえない(言語リハビリの理屈からして当然)。→「山川の末に流るるとち殻も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」空也上人
(5) 吃音矯正は「根気」とそれを支える「情熱」が不可欠。→「苦労の冷や飯奥歯で噛んで、耐えろ望みの叶うまで。」俚諺
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2)吃音矯正の科学的用語の確立
私が用いてきた吃音関連の用語が日本はもちろん世界に向けて広がり、吃音研究の基本的語彙として確立しています。
(例)旧回路と新回路、過大脱分極、治癒と寛解、必然性・蓋然性・偶然性、単純系と複雑系、間歇性、刺激の閾値、吃音のベース・トラブル・コントロール、吃音のリハビリテーションとバイオフィードバック、自己観察と自己コントロール、正音・吃音・調整音、適応機制・構音分析など上げてゆけば切りがないほどです。
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3)ドモリの世直し運動
この世界はインチキ矯正所だらけです。人体の生理や脳の働き、言語活動のオルガニズムが分かっていない連中が平気で看板を上げています(看板に偽りあり)。これらは害虫と同様駆除する必要があります。私は一人でも多くの吃音者が私の講座を受講して吃音を直し、この運動に加わってほしいと願っています。日本人の悪い性分ですが、単に知名度や権威・肩書きで右往左往してはいけません。世の中には色々な矯正所があるのではなく、正しい矯正所と間違った矯正所が有るということです。
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4)公開討論
私は「論理学」を修め、この立場から吃音矯正の普遍的方法を構築しています。私の理論と方法に異議があるのであれば、何人であれ堂々と正面から受けてたちます。また何処へなりとも出向き議論に応じる用意があります。
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5)ケーシー・ワールド
10回の講座を履修し、優秀な成績を収めた方の中から、人間性も加味して、新規に吃音矯正所を開くことを認めています。
○山口徳郎(パコ山口)氏
「山口吃音クリニック」(本部・松戸市)
「ケーシー先生、今年もよろしくお願い申し上げます!…こんなアホな私ですが、どうか今後もよろしくお願致します。…アメリカでの吃音者大会、燃え狂って参加します!」
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★ケーシー松原の俗説粉砕シリーズ
プロローグ
1) 10人いれば10通りの直し方がある。
2) 腹筋の力が足りないからドモル?!
3) 声帯を広げて息を通りやすくする。その為に腹に力を入れて、大きな声でエイッと言う。
4) 人の真似をしたのでドモリになった。
5) 吃音は意識の固定が原因である。
6) 吃音は条件反射が原因である。
7) 早口言葉で練習させる。
8) 吃音は気のせい、心、精神の問題である。
9) 手を握り締めて手足を緊張させ、次第に体全体の力を抜いて話し始める。
10) 子供が吃音になったのは、母親の話し方に対する過干渉のせいである。
11) 吃音者はドモらないで言える時も有るから、身体面には何の異常もない。
12) 過度な緊張や焦りが人をドモらせる。
13) 正音者の先生だけが吃音を治せる。
14) 吃音は言葉の障害ではなく、吃音矯正とはその話せなくしている「何か」を明らかにする事である。
15) 人間の発声器官は遠い昔、四足で歩いている頃は、咬んだり食べたりするために機能していた・・・
16) ドモリは自然に治る。特に吃音を「自覚」すればドモリは治る。
17) 子供はドモらないか、ドモってもすぐ治る。故にドモリは大人の妄想である。
18) 発語する言葉に意識を向けない。
19) 吃音にこだわらず、自分のやりたい事をやってその生活が生き生きとしていれば、いつの間にか吃音を忘れ、それが吃音が治る事に繋がるのではないか。
20) 森田療法
21) 腹式呼吸、丹田呼吸
22) 矯正上重要な事は、即ち発語器官と呼吸器官のエネルギー置換を行い、上体に働く揚力を解消し、此れを下半身の下降エネルギーに置換することが大切です。
23) 合理化機制
エピローグ
プロローグ
戦後の吃音矯正の歴史は、三期に分けられると思います。第一期は「情熱の時代」です。プラカードを持って公衆の前で、「私はドモリです。」と叫んでみたり、手探りながら自分自身で、あるいは仲間と一緒に励ましあって、一生懸命吃音を治そうとした時代です。しかし多大なエネルギーを使って、今では伝説にさえなっているこの試みは残念ながら失敗に終わりました。第二期は「籠絡(ろうらく)の時代」です。自分で治す事を諦めた人達が、いわゆる「矯正所」へ一瀉千里(いっしゃせんり)に走りました。何故ならそこでは例外なく「ドモリは治る。」と宣伝していたからです。しかし高いお金を積んで入ってみたら、羊頭狗肉(ようとうくにく)で、ほとんどの人達が何の成果も挙げる事が出来なかったのです。第三期は「幻滅の時代」です。此れが現在まで続いています。治す事を諦め、面妖(めんよう)な俗説に飛びついては、自慰的行為を繰り返し、自己瞞着(じこまんちゃく)に終始しています。その一方、脳の研究は日進月歩で進歩し、吃音そのものにも王手が掛けられています。そのオルガニズムの解明はなされつつあるのです。私は国公立或いは大学の脳科学研究所の最先端の現場を訪れるにつけ、それらの研究結果と吃音者の意識との落差に驚きを禁じ得ません。多くの方が吃音をフロイト流のトラウマとして考え、あるいはアノマリー(既存の理論では説明できない現象。)として諦めているのです。一番いけない事は、少ない知識しか持ち合わせていないにもかかわらず、仏教用語で成心(せいしん)と言って、アプリオリな自己判断でもうこうだと決めてかかっていて、自分の殻から抜け出せないでいる事です。吃音者は一人で社会的に孤立して生きているか、小さなグループを作り、吃音の事は話題にもしないで誰がどうドモろうが看過傍観し、自嘲的な劣等感をひと時忘れる場に利用しているのが実情です。吃音者の視界狭窄(しかいきょうさく)は否めず、社会的政治的関心もほとんど無く、せいぜい仲間内のリクリエーションに終始しているので、人間の幅を感じられる人が少ないのです。私は現在の科学的成果を吃音者に知らせて啓蒙(けいもう)し、講演者や民間矯正所を厳しく精査し、何か問題が起こった場合には援助の手を差し伸べて挙げられる、全国的な真の意味での吃音者の互助的ネットワークを作りたいと考えています。此れは私一人の力では出来ません。是非皆さんのご協力をお願いしたい所です。ところで私は以下に「ケーシー・松原の俗説粉砕シリーズ」と言う拙文をしたためました。この世界では妄言俗説と言う妖怪達が、白昼堂々、都大路を跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)しているのです。吃音に関する幼稚で杜撰(とせん)な説に騙され、又現に騙されているからこそ、吃音が治らないのです。是非一度ご覧になってご参考になさってください。
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1)10人いれば10通りの直し方がある。
科学の原則は、真理は一つということです。吃音という条件の下では一つの治し方しかないのです。2つ以上のやり方が有れば、そのうちの1つだけが正しくて後は間違っているか、或いは全てが間違っているかのどちらかなのです。こういう説はソクラテスが批判した古典ギリシャ時代のプロタゴラスの相対論にあい通じるところがあります。イメージ的には旧約聖書に書かれている「バベルの塔」を思い浮かべてしまいます。
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2)腹筋の力が足りないからドモル?!
果たして吃音者の腹筋が正音者の腹筋に比べて弱いのでしょうか。そんなことは有りません。
それに人間は年を取れば誰でも腹筋が弱くなるのです。毎日バーベルや腹筋運動をやれと言われてやるのも良いですが、それよりも楽しく自分の好きなスポーツをやるようにしましょう。
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3)声帯を広げて息を通りやすくする。その為に腹に力を入れて、大きな声でエイッと言う。
人間が声を出すのは、声帯を広げれば良いと言うものではなく、逆に広げっぱなしでは音は出ません。左右の声帯のわずかな隙間が閉じたり開いたりして、その振動で声帯原音が生じるのです。むりな発声はノドを痛めるだけです。
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4) 人の真似をしたのでドモリになった。
正音者は人の真似をしてもドモリになりません。吃音者は生まれつきドモリになる素因を持っているのです。
オギャアと生まれて意思表示の文章構成が複雑になるにつれて言語発音能力が追いつかなくなってゆくのです。真似をしようがしまいがドモリになるものはドモリになるのです。
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5)吃音は意識の固定が原因である。
自分はドモる、自分は吃音者だという意識が実際の場で吃音を生むという説です。しかし、私はそういう人に聞きたい。アナタは意識の固定が起こる前に何百回何千回とドモって来たのではないですかと。まさに本末転倒なのです。吃音界には上記と似たような説が幾つも有るのです。まったく呆れてしまいます。
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6)吃音は条件反射が原因である。
パブロフの実験はどなたも知っている所です。この説は一部正しい所はありますが、全て正しいというものではありません。じっさい、我々はドモる度に犬のように美味しい思いをしてきたのでしょうか。吃音の形成には、習慣のほかに生まれながらの素因というものがあり、この二つが結合して吃音の回路ができるのです。しかもこの回路は一度作られたら二度と消す事は出来ません。ですから吃音矯正とは、いわゆる吃音の旧回路を上回る調整音(この言葉については後程説明します。)の新回路を作る事なのです。そして私が何故この説に賛同出来ないかといえば、条件反射が定着するまでの吃音を説明できないからです。
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7)早口言葉で練習させる。
早口言葉や外郎売などの朗読練習は高度言語訓練と言って、吃音がほとんど治ったか直ったに等しい人が、正音者と同じ言語能力またはそれを上回る力を持ちたいが為にやるものであって、人前でドモっている人がやれば、口腔内を余計に緊張させ、ドモリが悪くなる事はあっても良くなること決っしてありません。このような事が何の理論も無くただ行き当たりばったりで行われているというのが、この世界の実態なのです。まことに嘆かわしい限りです。
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8)吃音は気のせい、心、精神の問題である。
昔、プラカードをつけて電車の中で、「私はドモリです。」と大声で言いながら歩き回った人がいた、という話を聞いた事があります。その熱意は買いますが、それでドモリが治ったのでしょうか。私たちは正音者と比べて、それ程心がひねくれているのでしょうか。それとも人一倍恥ずかしがり屋なのでしょうか。治すためには禅でもして心を磨かなければならないのでしょうか。このいわゆる精神論というものは、昔からこの世界に巣食う根本的な誤りなのであり、「しゅくあ」なのです。科学的論理的立場からすれば、吃音の原因は先天的な脳の言語上における機能不全、生理的失調である事は常識なのです。こういう説はレーゾンデートルを欠くものです。まったくこの相異なる見解は絶対に近づく事のない二本の道ともいえるでしょう。抽象的な心理・精神の道を行く人は、隔靴掻痒(かっかそうよう)のあげく、結局ロダンの地獄の門に至って懊悩し、吃音を脳の問題として捕らえ、機能の道を行く人は、リハビリテーションによってギベルティの天国の門に至り、栄光を手にすることができるのです。決っしてこのような陳腐な説に騙されてはいけません。
良く吃音に関して「精神」と呼ばれるのは一体何のことなのでしょうか。例えば植物人間になった人は夢さえ見ません。それに「精神」という言葉は、ドイツ語の「ガイスト」からの翻訳語であり、ゲーテの「若きヴェルテルの悩み」に見られるように、深い意味を持つものなのです。私としてはこのような大事な言葉を、何も判っていない軽薄な意味合いで使って欲しくありません。
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9)手を握り締めて手足を緊張させ、次第に体全体の力を抜いて話し始める。
何を根拠にこんな事をやっているのでしょうか。おおかたシュルツの不眠症患者への治療法から取ってきているのでしょうが、全く馬鹿馬鹿しくてお話にもなりません。此れと同じ様な事で、「ケツの穴に力を入れて話せば良い」といった類のものも有ります。アメリカに実際そう書いてある本が有りますし、それをまに受けて信じている人もいるのです。皆さんどう思われますか。
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10)子供が吃音になったのは、母親の話し方に対する過干渉のせいである。
「シンデレラ、マッチ売りの少女、森は生きている」この三つの良く知られた代表的な童話は、いずれも可愛そうな少女が継母にいじめられる物語ですが、この少女たちの誰か一人でも吃音になったでしょうか。そんな事はありませんね。でも此れは現実の話ではないと言う人もいらっしゃるでしょう。より根本的に考えてみましょう。生物学的にいって、子供は母親の積極的な働きかけ話しかけによって人間としての資質が備わり、子供は子供で生まれた環境に順応して育っていくように出来ているのです。ですから当然のことながら日本に生まれた子供は日本語を話し、アメリカに生まれた子供は英語を話すようになるのです。このような事が欠けたらどういう事になるか、その極端な例がインドの狼に育てられた少女たち、アミラとカミラのケースである事はご存知の方も多い事でしょう。ですからむしろ逆に、イジメによる過干渉で有る無いに係わらず、子供に対する話し掛けが多ければ多いほど、それだけ言語習得力が増すというものです。母親でも誰でも人のせいにしない事です。ジャン・ジャック・ルソーはその著者「エミール」の中で、「子供には悪い本能が無く、堕落させるのは大人である。」と述べていますが、もちろんここではあてはまらない事です。
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11)吃音者はドモらないで言える時も有るから、身体面には何の異常もない。
物事には大きく分けて、単純系の世界と複雑系の世界と呼ばれるものが有り、単純系とは例えばA=Bといったような因果律(いんがりつ)にストレートに従う事象をさし、複雑系とはさまざまな要素が絡み合ってひとつ或いは幾つかの事象が起きたり起きなかったりする現象の全過程を言うのです。これは話すという事はどういう事かを勉強すれば、誰にでもそのからくりからして、言語活動そのものが高次機能複雑系の世界に属する事が解るはずです。ですからこの説は吃音を単純系と決め付けているところに間違いが一つ有ります。そして科学では、一つの事象が起きる時の性質のついて三つの分類がなされています。それは、偶然性、蓋然性、必然性と呼ばれるものです。有る事象がどのくらいの確率で起きるか起こらないか表面的にはわからない性質の事を蓋然性(がいぜんせい)と言っています。ですから元々吃音と言う間歇的で蓋然性を持つものを、これまた一方的に必然性と決め付けているところに、理論的誤謬(誤り)が有るのです。さらに言えば論理学上これは一種の類比推理(例えば空を飛ぶコオモリを観て、これは鳥だと思う。)であり、媒概念不周延の虚偽に陥っています。このように俗説の生じる所には、必ず吃音そのものひいては科学そのものに関する根本的な無知が存在するのです。しかも、このような俗説を流している人達そのものが、その社会的地位のいかに関わらず、論理学のろの字も知らないか、正しい論理的な思考すら出来ないのです。その為に少なからずの人たちが心理療法、催眠療法等に走り、なんらの改善も見られずに泣きを見てきたという経過が有ります。吃音の原因は身体面すなわち脳に有ることを、ここで改めて強調しておきましょう。よく心理、心理と別のもののように言う人がいますが、心理そのものも脳の活動の一面に過ぎないのです。
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12)過度な緊張や焦りが人をドモらせる。
現実を見てください。例えば神経症患者で対人恐怖の方々です。彼らは人前に立つのが怖く、嫌でたまらないのです。ですから人によっては顔を見られないように、帽子を顔の半分までま深にかぶったりしています。話しかけようとすると、彼らが本当にぶるぶると震えているのが解ります。彼らは人前で話をしようとする時、吃音者よりよほど緊張しているのです。にもかかわらず、彼らは震えながらでもすらすらと話しています。正音者一般でも同じ事が言えます。本質的現象から派生的現象は生じますが、逆に派生的現象から本質的現象は生じません。つまり私が言いたいのは、本末転倒だと言うことです。このような俗説があまりにも多すぎます。本質的な問題である吃音そのものをリハビリテーションによりストレートに治すことによって、緊張その他の派生的な現象は、おのずから自然と消えてゆくのです。
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13)正音者の先生だけが吃音を治せる。
吃音者はどうしても正音者に憧れます。習う側は普通の人、つまり先生のような話し方をまねれば良いんだと思ってしまいます。でもちょっと待ってください。話し方には三通り有るのです。それは吃音、調整音、正音と言うものです。調整音とは吃音者がうまく話せるようにと、心(脳)の中で意識的に、苦労しながら発する言葉のことです。吃音者はたとえ見かけ上治ったとしても、正音者のように無意識にどんな時でもスラスラと話すことは出来ません。一生調整音で話す、それが吃音者が担わされた悲しい宿命なのです。でもやや余談になりますが、話すことに負担を感じつつも、立派に話しが出来て社会的に通用すれば、それで十分ではないかと私は思います。ところで当然の事ながら、正音の指導者にはその社会的肩書きがどうあれ、調整音という概念を観念的にも実際的にも理解する事は出来ません。そういう指導者はいつも予断と憶測だけで教えるので、教える側と習う側はいつもすれ違いに終わってしまいます。もっとはっきり言えば、正音者は吃音者を教える資格も能力も無いのです。私は今まで正音者の「先生」の教え方で、正しいものを見たことも聞いた事も有りません。このような人達はモリエールの喜劇に登場する可笑的な医者、さしずめピエール・パトラン先生とでも言うところでしょうか。吃音者を指導できる者とは、吃音を自力で治し、正しい理論と指導法を持ち、治してあげようと言う情熱を持った人だけに言えることなのです。
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14)どんなに重いドモリの人でも独り言を言う時や、何人かで声を合わせて読む時にはドモらないので、吃音は言葉の障害ではなく、吃音矯正とはその話せなくしている「何か」を明らかにする事である。
ここで閾値(いきち)と言う言葉を覚えましょう。閾値とはもともと生化学分野において蓋然性を持つ事象の科学的説明のための概念を言い、ある作用によって生体に反応が起こる場合、反応が起こるのに必要なその作用の最小の強度を言います。吃音者の場合、閾値が低いとはドモ易いいこと、閾値が高いとはドモリ難い事をさします。吃音者はその人の置かれた時々の状況により、様ざまなストレッサーによってストレスをこうむり、吃音が起きたり起きなかったりするのです。しかし正音者の場合には閾値がどう変化しようとドモらないという事実をここではっきり留意しておきましょう。皆さんにわかりやすいように、この俗説をもう少し詳しく分析してみましょう。まず独り言の件ですが、此れははっきり言ってウソです。私自身独り言の時でもドモっていました。独り言ではドモるけれども皆の前で話すときにはドモらないという症例報告さえあるのです。しかし、何故一般に独り言が言い易いと言われているかといえば、短いセンテンス、小声、低音、吐く息が声に優先(溜め息交じり)、言い慣れた言葉、考えずに言える、たとえドモッても気にならない、対人的なストレスが無い、などの閾値を高くしている要因が有るからです。それから読み合わせではドモらないという件ですが、これにも幾つかの理由が有るからです。まず一つめには、本の字を見ながら読むわけですから、話す前の文章構成に気を使わなくても済む。二つめには、周りの言っている言葉を瞬間的に真似して読んでいる。生まれた子供が母親の言葉を真似しながら言語を獲得していくのは、人類共通のものです。ですから言い易い。アメリカで言語回路を切断された人が、全然話せなくなってしまったのだけれども、人の言った事をすぐ真似することはできたという報告があります。三つめには、皆んなで声を合わせて読んでいるわけですから、知らず知らずに一種のリズムが生まれ、そのリズムに従って読んでいるわけです。リズムは歌に通じ、歌は言語をつかさどる左脳ではなく、右脳で処理されています。ですから右脳に障害のない吃音者は正音者と同じように歌なら歌えるのです。日本でも、言葉は話せなくなっても歌なら歌えるという症例は幾らでも有ります。これまたアメリカの話になりますが、言葉を話せなくなった人が、賛美歌を歌ったと言う臨床例も有ります。このように吃音の本質を前提にせず、枝葉末節である閾値の高低を「与件」として結論を下すということは、全く演繹的推理の体をなしておらず、論理的誤謬(ごびゅう)であり、私がいつも言っているように、正音者の吃音に対する予断と憶測に基ずく曲解以外の何物でも有りません。しかも一種の詭弁であるこの説ではその「何か」について明らかにしておりません。条件反射なるものをほのめかしているようですが、私も条件反射を認めないわけではありません。しかし条件反射になるほど吃音が定着するためには、その以前に何千回何万回とドモっていなければならないはずです。その間の吃音について、このような俗説を流している人は、どのような言い訳をするのでしょうか。
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15)人間の発声器官は遠い昔、四足で歩いている頃は、咬んだり食べたりするために機能していた。緊張した場面では昔に戻る。そして吃音刺激閾に達すると、延髄の自発的な働きにより、急場に対応するため、大脳皮質の命令を待たずに、呼吸が呼気状態になり、横隔膜が乱れ、舌や唇さらには顎の筋が収縮する条件反射が形成されて、本格的は吃音になってしまう。ドモリを治すにはロジャーズの仮説により、「自らが主体的に生き責任を持って考え、感じ、経験できるように成長し、環境からの刺激、あるいは、恐れ、怒り、不快、喜びなどの、内臓感覚的刺激を自覚すれば良い。」このような営みを援助するのがカウンセラーの役割である。
何しろ説明の仕方がメチャクチャでしたので、上のようなまとまった文章にするのに一苦労しました。なおロジャーズの仮説の部分は手直しせずにそのまま載せてあります。まず、過大な危険度の高い刺激に直面して、動物が進化の逆方向を示すことが有ることは事実です。でも実際のところ、現実社会ではほとんどのところ起こり得ません。人間はピストルを向けられても、「助けてくれ」と言えるのです。群れとして生きてきた人間は、危急の際にはむしろ逆に、危険を仲間に知らせるために、言葉少なくとも声を発する必要が有ったのです。次に、延髄が話せない事の中心のように言っていますが、ストレスの影響を考えるなら、同じ「古い脳」でも大脳辺縁系や、視床下部、間脳などの役割を重視すべきでしょう。しかし脳におけるこれらの部分は、閾値の上下に影響を与えても、言語回路には当たらないのです。ましてや延髄の命令とやらが大脳新皮質の言語野や運動野を通さずに、発声器官に直接作用する事など理論的にも実際的にも不可能な話です。無知もいいところで、全くお笑い物です。その上進化の話と延髄の話を一緒にしていますが、この二つは元々次元の違う別件であり、全く理論的整合性が有りません。ミソクソ理論とはこういう事をいうのでしょう。しかし本当に呆れてしまうのは、ロジャーズの仮説を持ち出している点です。彼は元々吃音矯正の為にこの説を述べているのではないのです。こをいうのを「牽強付会」と言うのです。一種のひょう窃(盗み取り)です。ロジャーズの仮説はあえて言うなら、宗教や精神修養に当てる方が適当と言うべきでしょう。実際カール・ロジャーズはアメリカのユニオン神学校を出て、宗教的背景が有り、その説は非指示的精神療法と呼ばれ元々抽象的な言い回しが多いのですが、此処で言う「内臓感覚的刺激」とは一体どういう英語を訳してどういう意味なのか、吃音矯正の専門家の私が解らないのですから、皆さんが解らないのも当然です。(果たして本人はどう理解しているのでしょうか。)この俗説にはまだまだ指摘しなければならない誤りが幾つもあるのですが、きりが無いのでこのくらいで止めておきます。いずれにせよ、難しい言葉や外国の権威筋を持ち出して来たところで、騙される人こそ有れ、真に納得する人は一人も居ないことでしょう。そして一番の問題は、同じ平穏な社会で吃音者と正音者が同じように適当な刺激を受けて暮らしていながら、何故一方はドモり一方はドモらないのかと言う事、そのメルクマールに対して正確な答えを出し得ない者は、カウンセラーなど名乗る資格は無いのです。
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16)ドモリは自然に治る。特に吃音を「自覚」すればドモリは治る。
確かに自然に治る人もいます。しかしそれは全人口の1パーセントと言われる吃音者人口のそのまた数パーセントに過ぎません。こういう見方を論理学では、包摂関係の不周延による誤謬と言います。一部の人に当てはまるものであっても、それが全ての人に当てはまるとは限らないからです。「自然に」と言うのは多少曖昧な言葉であって、此処では「馴化(じゅんか)」と言う言葉を覚えましょう。簡単に言えば「馴れ」と言う事です。自らも吃音者であったフレッド・マクマレーはその著書「吃音の克服」の中で、兵役につかされ、軍の日用品売り場に回されて、初めは非常に困惑したけれども、そのうちだんだん馴れて行ったと書いています。脳内には30億個もの神経細胞がひしめいていて、その一つ一つが他の神経細胞と連結して回路を形成しています。そして学習により神経回路網の結合が変化するのも、脳の大きな特徴です。大人の人間では一日当たり数十万個もの脳神経細胞が死んでいって、決して増える事はありませんが、(生まれた赤ちゃんの脳細胞が増えたという臨床報告はある)、それでも脳は限られた神経細胞のネットワークを組み替えながら、環境に適応しているのです。この事が馴化の本当の意味なのです。治った人と言うのは本人が気ずいているいないに関わらず、脳の中でそれなりに一種のバイオフィードバックが働いていったと思われます。その逆にドモリ続けるという事は吃音の学習を自ら施す事に他なりませんから、吃音の固執が強まります。吃音者の人生とは、この馴化と固執の競争だとも言えます。たまたま馴化の勝った人が治って行くのです。しかし残念な事に、吃音の固執に縛られ、一生ドモリ続ける人が大多数というのが現状です。だからこそ吃音矯正が必要なのです。吃音矯正とは言うなれば固執を押さえ、馴化を効率的に援助することに他なりません。もちろんそれは正しい理論と方法によって行わなければ意味がありません。それから自覚うんぬんの件ですが、吃音者の皆さんはいつも人前で、嫌と言う程恥をかいて吃音を自覚しているではないですか。わたしにはこの「自覚」と言う意味が全く解りません。
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17)子供はドモらないか、ドモってもすぐ治る。故にドモリは大人の妄想である。
矯正に携わる正音者の吃音に対する認識が、如何に的外れであるかという事のいい証左です。こんなムチャクチャな三段論法も有りません。よくも妄想だなどと言ってくれたものです。吃音者の気持ちを逆なでするもので、私も元吃音者として怒りを覚えます。しかし此処は冷静に反論しなければなりません。まず子供はドモらないという説ですが、此れは真っ赤なウソです。皆さんは2,3歳の頃の事を覚えていますか。自己自身の自我が芽生えて初めて人生の長期記憶が生じるのです。私もその頃の記憶はもちろん無いのですけれども、幼稚園の頃にはもうすでにドモっていたことをハッキリと覚えています。では何故このような誤解が生じるのかと言うと、成人の立場からすると遠い過去の事で記憶がハッキリしない事がまず有ります。次に複雑な文章構成の話をしないこと、社会的に緊張する場面に立たされる事が無いこと、そして何よりその頃は吃音をあまり恥として感じないこと。ですから振り返ってみて自分がその頃ドモっていたかどうかよく覚えていないという人が多いのです。これが思春期になるに従って、自分自身にとって大変な問題になって来るのです。ですから怪我もしないで突然ビッコになる人がいにように、大人になって突然ドモリになるわけではなく、現在の吃音は子供の時からの延長線上にあります。こんな事は吃音者にしてみれば当たり前の事なのですが、正音者は自分が体験していないので、まるきり解らないのです。論理学で帰納的誤謬のうちの、不当観察の誤謬と言ってもいいでしょう。次にドモってもすぐ治る、という説ですが此れも包摂関係の不周延を起こしています・子供でも治らない例もあるのです。何歳までを子供と言うのかハッキリしていないのもいい加減なのですが、私自身高校の教室で、立って教科書を読む事を指名されて、一言も声を発する事が出来ず、随分と辛い思いをした体験があります。子供のドモリは大きく二つに分けられます。一つは言いたい事が沢山有るのに、まだ文章構成力が十分に身に備わっていないので、そこにズレが生じ、つい引っ掛かってしまうというケースです。大多数の例が此れにに当てはまり、生長するに従っておのずから消ええ生きます。私はこういう子供たちを仮性ドモリ呼んでいます。一方生まれつき吃音の素因を持っているので、子供のときからドモリ続け大人に持ち越す普通の吃音者のケースです。私は此れを真性ドモリと呼んでいます。森羅万象、世の中には全て原因があって結果があります。その逆は有り得ません。此れを因果律と呼びます。諸学問の根本でもあります。妄想の原因は何なのですか、精神病ですか。全く馬鹿馬鹿しい話です。よく生まれつきのドモリはいないなどと言っている人がいますが、此れも同列です。普通の人の身に一体何時どのような重大なことが起こってドモリになったと言うのでしょうか。遺伝によるか(実際に親族に吃音者が居るという実例が多い)、出産前後の物理的生理的障害以外の何が考えられるというのでしょうか(この点ではてんかんと同じです。)。これも広い意味では同じ事ですが、例外として田中角栄元首相の吃音があります。彼は子供の頃に不幸にしてジフテリアにかかり、脳障害による言語障害、言語障害としての吃音になってしまったのです。(彼はその後自力で治しました。)妄想だといっている人の方こそ、妄想を抱いているのです。
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18)発語する言葉に意識を向けない。
発語する時にその言葉を話そうと意識しないで、どうやって話すのですか。論理的矛盾もはなはだしいものです。むしろ逆にドモらないように出来るだけ意識して話すことが必要なのです。吃音矯正の正しい理論を持ち合わせていないから、このような場当たり的なことを言うのです。
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19)ドモリを忘れられないからドモリが治らない。吃音にこだわらず、自分のやりたい事をやってその生活が生き生きとしていれば、いつの間にか吃音を忘れ、それが吃音が治る事に繋がるのではないか。
物事は全て因果律に基づいてなりたったているという事は先にのべました。つまり原因が先で結果は後なのです。ところがこの説では吃音という結果を先にもって来ているのです。吃音の原因をまず先に述べない限り、どんな論理も成り立たないのです。勿論これは吃音に限らず、あらゆる説明に当てはまる事です。その原因の結果として今の現実が有るのですから。しかもこの説は吃音だからドモる、ドモるからこだわる、こだわるからまた吃音になるという悪しき循環論におちいっています。此れでは何の問題の解決にもなりません。このように基礎的な論理的思考すら出来ない人が、某大学の教授だと言うのですから、日本も終わりだと思わざるを得ません。それから吃音を忘れていればそのうち治るだろうと言っていますが、忘れていようがいまいがドモル時は必ずドモるという事は皆さん自身が、日常つねに嫌というほど味わつてきた事しょう。この事からも解るように、正音者は吃音者の気持ちも含めて、吃音そのものがまるきり解らないのです。この事は此処でしっかりと肝に銘じておきましょう。此れには例外はありません。正音者の的外れな話を聴くくらいなら、重い吃音者の苦労話を聞く方がまだマシというものです。自己主張の否定的感情の表出何がしから始まって、家庭内暴力の積極的奨励にまで及んでいるのですから、反社会的言動であり、吃音者に精神的公害を撒き散らしているのと同じ事です。もしこの講演に何がしかの金品が渡っているとするならば、泥棒に喜んで寄付金を渡すようなものです(泥棒に追い銭)。このような不適当な人間を連れてきた人達にも、当然責任が問われるところです。アリストテレスの向こうを張った「新オルガノン」の著者フランシス・ベーコンは、その著書の中で、人間の先入観念を偶像(idora)と呼び、四つのイドラうちの一つに「劇場の偶像」と呼ぶものを挙げています。伝統や権威、時代思想などから来る偏見をさすのです。エライ人や専門家と呼ばれている人達が、必ずしも正しい事を言うとは限らないのです。問題は皆さん達が他の人の話を聞く場合に、「権威」に目を惑わさてはならず、冷静に、論理的思考を持って受け止め、事の真贋(しんがん)を正しく判断する事が重要なのです。
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20)森田療法
大正時代に、慈恵医大精神科教授の森田正馬(まさたけ)が創始した、日本独自の精神療法です。彼は「日新又日新(ひにあらたなりまたひにあらたなり)」と説きました。私も病気で慈恵医大に通う身なので、此れについて話してみましょう。結論から先に言いますと、吃音矯正に森田療法を持ち出すことは間違いです。彼はあくまで精神病患者、神経症患者を対象としていて、吃音者のことを考えていたわけではないのです。自分の精神や神経が病んでいるわけではないことは、皆さん自身がよく解っている事でしょう。更に言えば、森田療法は、40日間の入院療法を必要とするのです。特に最初の一週間は、「絶対がじょく」と言って、トイレ以外はベットから離れる事は出来ません。ですから吃音の事で森田療法がどうのと言っている人たちは実際のところ言葉だけで、森田のもの字もやっていないのです。上記の事からこのような名前を伝でんしている人たちは、一種の騙りであり、サギ師といって差し支えないでしょう。もう一つの精神療法の柱に、「内観法」と言うのがありますが、此れは浄土真宗の「身調べ」から発展していったもので、森田療法が「行動療法」と言われるの対して、より瞑想的な療法です。いずれにせよ宗教や精神療法で吃音を治そうとすること自体が間違いなのです。そういうものとはハッキリと峻別しなければならないのです。イエス・キリストも「神のものは神にカエサルのものはカエサルに。」と言っています。
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21)腹式呼吸、丹田呼吸
人の呼吸は横隔膜の弛緩・緊張によるものと、胸郭の伸びちじみによるものが有ります。前者を腹式呼吸、後者を胸式呼吸と呼びます。呼吸量は横隔膜で行うほうが多いのです。だからと言って特別に、吃音矯正のために、腹式呼吸をする必要は有りません。正音者は腹式呼吸で話をしているのですか。それだけ考えてみても解るでしょう。普通は腹胸式呼吸と言って、腹と胸と同時に両方使って呼吸しているのです。要は如何にスムーズに呼吸し、その呼気(吐く息)に言葉を載せて話すかが、呼吸法と言うものなのです。それから丹田呼吸というのは中国から渡って来た健康法で、おへその辺りに「腹腔神経そう」と言う、自律神経の集まっている所があり、此れを刺激する事によって、健康向上に役立てようと言うものです。具体的には腹を指で押しながら前かがみになり、起き上がって一呼吸し、又腹を指で押しながら前かがみにと繰り返すものです。皆さんは実際に人前で、そんな事が出来ますか。此れは元来健康のためにやるものであって、吃音矯正のためにやるものではありません。しかも口先だけの話ですから、前項の森田療法と同じで、二重の間違いを犯しているのです。
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22)矯正上重要な事は、即ち発語器官と呼吸器官のエネルギー置換を行い、上体に働く揚力を解消し、此れを下半身の下降エネルギーに置換することが大切です。
ムチャクチャな説明文を一つの簡潔なテーマとして纏める事は、反論することより難しいことが有ります。この俗説はエネルギー論を中心に、ムダな事をいろいろ主張していますが、いわゆるエネルギーとは何かについては全く触れていません。元々吃音は高次脳機能疾患と言うべきものであり、エネルギーとしてガソリンを入れて、車を走らせるのとは訳が違います。脳のニューロン(神経細胞)に生じたインパルス(一種の生体電気)は、カルシウムイオンなどのさまざまな影響を受けながら、アセチルコリンなどの神経伝達物質を経て、最終的にアクチンとミオシンという酵素が筋繊維に働きかけ、発声器官を初めとする体の諸機関を動かすというオルガニズムになっているのです。何の意味かよく解りませんが、生理学上、エネルギーなどという訳の解らない抽象的なものが入り込む余地は全く有りません。
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23)合理化機制
イソップ童話で、ある狐が木の枝にぶら下がっているぶどうを取ることが出来ない時、「あのぶどうはすっぱい」と言って、自らを慰めるという話が有ります。このように自分に好都合な理由を(それが必ずしも本当ではない)あげて、自分の行動を合理化しようとする事を、社会心理学上、合理化機制と言います。つまり一種の自己欺瞞で、自分で自分を誤魔化す事なのです。最近吃音界ではこういう傾向がますます強くなっています。人間関係において、「私はドモる人の方が良い。」とか、「ドモりながら話したほうが相手に気持ちが伝わる。」とか、ある会合の席で一人の女性が「私は吃音者で本当に良かった。」と言って随喜(ずいき)の涙を流して喜んだ、などと枚挙に暇間が有りません。アルバート・エリスの「論理療法」(吃音の袋小路)などというのも此れと同列です。しかし事実は冷厳です。そんな事は自分に暗示をかけているだけで、社会的には全く通用しません。ギリシャ神話によれば、復讐の女神ネメシスは、罪を犯した者を追い続け、その者が弱り果て地に倒れ伏すまで、その追いの手を緩めなかったと伝えられています。だいたいそういうような事を言う人は、吃音が軽い人が多いのです。ある新聞の人生相談コーナーに、「子供が小学生になってPTAで話す事が出来ない、子供に本を読んであげることすら出来ない、いっそ死んでしまいたい。」という記事が載っていました。実際に吃音を苦にして自殺した人もいるのです。その反対に言葉は似ていますが、「合理的機制」と呼ばれるものが有ります。此れは合理的な方法で障害を取り除き、欲求の充足を図るものです。例えば貧困の為に進学が困難になった者が、アルバイトをして学資を得て大学生活が送れるようになった、などと言うのがその例です。論理学でライプニッツの「充足理由の原理」と言うものが有ります。ごく簡単に言えば、如何なる判断もその理由を有する、と言うものです。その事を十分理解して、吃音矯正も合理的機制として取り組むべきなのです。女々しい事を言わないで、日本男児であるならば、凛然(りんぜん)として吃音に正面から取り組む気概が大切なのではないでしょうか。
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エピローグ
私が確信を持って今現在言えることは、吃音は既に治せない物ではなくなったと言う事です。たゆまぬ脳神経分野の研究の結果、ブレイク・スルーはなされつつあります。此れは各民間矯正所が、営業の為に正邪転倒の理論を振りかざしているのとは訳が違います。問題はどのように治していくかという事でしょう。仏教用語で一人で悟りを開く事を「縁覚(えんがく)」、人の教えを聞いて悟りを開くことを「声門(しょうもん)」と言いますけれども、縁覚で行こうという方は、何も私のように論理学を修める必要は有りませんが、その本人が論理的思考が出来るか否かが大前提になります。それがおぼつかない人は、矯正に100%失敗します。その辺を十分自覚して努力してみてください。一方、もっと的確になるべく短期間で治したいと言う人は、声門の道を選ぶ事になります。此れにもいくつかの前提が有ります。まず第一は、赤面症だの対人恐怖症などと吃音を一緒にしている所には、絶対に行ってはいけません。ある矯正所の所長が「あらゆる神経症の患者を治したが、吃音患者だけは治せなかった。」と言ったそうですが、それが道理と言うものです。皆さんは心の病でドモっているわけではないのですから。第二には、吃音体験の無い者の話は、例え相手が言語療法士だのなんのと言っても、聞くだけムダだという事です。彼らには吃音は想像の域を出ない絵空事に過ぎないのです。その事は「粉砕シリーズ」で何度も取り上げてきました。元吃音者が自分の吃音を治したうえで、吃音専門に矯正所を開いている所にのみ行くべきなのです。さらに老婆心からもう少し付言させていただければ、一ヶ月で治すとか、短期完治集中講座等と銘打っている所も行くべきではありません。たかが数週間・数ヶ月で吃音が治るものではなく、追加追加とお金を取られてゆくのです。それから最初に全費用を請求するところも避けるべきです。相手としてはお金を取る事だけが目的ですから、本人が治ろうが治るまいがどうでもよく、責任を持ちません。いずれにせよ治すためには不断の努力と、恥ずかしさに耐える処世の覚悟が必要です。しかしながら一番の問題は、吃音者の中で相当数の人が(軽症の人が多いのですが)、治っても治らなくてもどちらでも良いと考えている事です。本来男性の大事な特徴の一つで有る問題完遂志向を喪失して女性化し、投げ遣りな事なかれ主義に身を委ねてしまっているのです。何故自分の運命を自ら切り開こうとしないのでしょか。何故逆に反発して、正音者と同じかそれ以上のものを求めようとしないのでしょうか。そのような人達は私に言わせれば、苦しみも無い代わりに感動も無い、一睡の夢のような小市民的人生を送って果てるものと思われます。最後に私なりの宣言をさせていただきます。「全国の吃音者諸君、自らの努力で吃音を克服し、人生において又社会の中で颯爽(さっそう)たれ。」ご静読ありがとうございました。尚吃音ならびに吃音矯正に関しまして、関心または疑問等ございましたら、どんなささやかな事でも結構ですから遠慮せず、当方までご連絡ください。私が誠心誠意お答えさせていただきます。もし私が留守の時は、家内に御名前と電話番号を伝えて置いてください。戻り次第ご返事させていただきます。皆様からのお電話をお待ちしております。
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