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男女打ち交わりて遊戯談笑のススメ

サンケイ新聞社月刊「正論」掲載済み

明治初期、我が国は西洋文明に直接接する事により、新たに学ぶべき事が多々あることを認め、この異質な文化を積極的に取り入れていく事を、「文明開化」と呼びました。福沢諭吉の「福翁百話」に「西洋文明社会にチーパーチーと称し、簡単に茶菓を用意して客を招き、男女打ち代わりて遊戯談笑、一夕の楽時を共にするの例あり。」とある通り、男女がお茶を飲みながら楽しくひと時を過ごしている光景を見て、これぞ西洋文明の真髄と直感した所に、彼の偉大さが有りました。事実西洋史は、キリスト教と男女の社交と言う、二本柱でつずられて来たのです。明治八年に出た「文明論之概略」の中で彼はフランス語のsosieteを「人間交際」と訳し我が国が文明開化するためには今までのように家族親戚が仲良くするだけでは駄目で、世間や人民の間に交際の輪を広げる事が必要だと述べています。それから百年以上たってどれ程変わったのでしょうか。率直に言ってこの方面では、日本は相変わらず「半鎖国状態」に有るといわざるを得ません。日本人にはどうしても「社交」と言う言葉の概念が理解できないようです。フランス人に社交なりサロン、サロン・ド・テと言えば「アー、ウィー」とすぐに解かってくれるのですが、これらの言葉を一般の日本人に解からせるのは、並大抵の事ではないのです。社交とは男女の交わりであり、その洗練された有り方を言うのです。例えば踊りを例にとってみても、日本舞踊などと違い、西洋のダンスはそれを覚える事自体が目的ではなく、あくまで社交の一環であり、社交のための道具に過ぎないのです。フランスのヴェルサイユ宮殿などで披露された古典舞踊(メヌエットなど)しかり、いわゆる社交ダンスしかり、フォークダンスでさえも、ヨーロッパ各地の村々で祭りの際に、男性が女性に求愛して女性がそれを受けるという素朴な習慣を、ダンスという社交の形式を置き換えたものなのです。しかし時代を遡ぼれば日本にも似たようなものが無かったわけではありません。まず第一「歌垣(うたがき)」が挙げられます。男性は気に入った女性がいれば既婚女性であっても声をかけますし、女性もそれにしっかりと答えるのです。「万葉集」を紐解けばその行間から、古代びとの純粋で自由でおおらかな愛の気持ちが伝わってきて、胸を打たれます。それから後の歴史については省略させていただきますが、一つだけ平安時代の歌人、藤原俊成の和歌をご紹介しましょう。「恋せずは人は心も無からましものの哀れはこれよりぞしる。」恋が無ければ何事も空しいものであって「ものの哀れ」は知るべくもないと歌っているのです。そして一部の上層知識階級のものとはいえ、「贈答歌」という形で真剣な恋のやりとりが行われていたのでした。

わが国の社交事情
わが国の人間関係の特質は、いわゆる同好会と忘年会に象徴的に現れている気がします。同好会は自分のやりたい趣味でそれぞれ人が集まっているだけなので周囲を気にする必要が無く、交わるとしても同じ趣味という一面においてだけです。それに対して会社の忘年会は半ば半強制的に集められ、座を持つ事によって仕事の効率をより良くするという隠れた意図が有るので、回りに必要以上に気を使い、ゲスな冗談にも無理に笑らい合わなければならないのです。日本人の交際のあり方は、封建制度の名残りをとどめた、ウチソトを区別するタテ型の集団主義をその特徴とする事がハッキリして来ます。それにどっぷりつかって何の疑問も感じない人は、真の友情も知らず、真の友人も無くて一生を終える事になるのです。なぜなら独立した個人同士の全面的な心の開示交流なくして、真の友情は生まれ得ない訳で、どの集団に属していようともその趣旨に沿った話しか出来ないのでは、人間関係も一面的・部分的なものにならざるを得ません。これが男女関係になると、更に失望せざるを得ないものになります。今日本の離婚率は結婚の三分の一という驚異的な割合になっていますが、相手の人格も知らないで結婚するのですから、当然と言えば当然かもしれません。成田離婚という言葉のように、派手な披露宴の直後の離婚にしろ決してまれな事ではないのです。日本の女性は相手探しの時にだけ男性と付き合い結婚したらその時点で他の男性との縁を切ってしまうケースがほとんどです。これでは社交の成り立つ余地がありません。町に出れば、恋人同士を除いて、男同士女同士の姿が目立ちます。まるでイスラムの国に来ているような錯覚にしばしば襲われるのですけれども、「男女は六歳にして席を同じゅうせず。」といった儒教思想のメンタリティーを色濃く残す我が国では、どうしても男は男、女は女と別れて固まってしまいがちです。このような状態と全く違う世界があって、現に有るのだという事を我々は知らなければなりません。例えばアンシャンレジウムの頃フランスではお堅いと思われがちな「法の精神」の著者モンテスキューですら、「妻を独占しようと望む夫は、皆の幸福を妨げるものと言えよう。」と警告しています。上流社会の娘たちは皆結婚に憧れましたが、それは夫がどうのと言うわけではなく、結婚すれば社交界と言う複数形の社会に入っていけるからなのでした。現代のフランスでも例えばパーティーを開く際は、男女が必ず同数になる様に心掛けるのです。又、夫婦同士がよく集まって行われる西洋のパーティーは、例えば一組の夫婦の夫ないし妻が別の夫婦の夫ないし妻と「異性」として語り合い、交流するために有るのです。西洋の男女は「愛」によって結ばれます。日本には恋愛と言う翻訳語こそ有りますが、実際のキメ手は「条件」なのです。ですからあちらではお互いの結節点であるその愛を確認しあうために、「愛しているよ。」と言ってみたり、キスをし合うのだと思われます。 


 
「愛」を取るか「条件」を取るか
一方日本では初めと条件が違ってしまう、例えば夫が重い病気になった、失業し再就職が難しいとなれば、妻の方から分かれてしまうケースが実に多いのです。そういう時にこそ心の癒しとして、救いの手を差し伸べてあげるべきなのに、です。最近よく耳にする有名大学卒、某一流会社社員、医者、弁護士などを集めてのいわゆる「ハイランクのお見合いパーティー」など、私にとっては睡棄すべき最低のものです。初めから条件を決めて「愛」や「偶然」の入り込む余地が無いからです。また、多くの男性が出会い系サイトやソープランドで女の体を「買い」、それだけでは心寂しいので、キゃバクラで会話を「買う」男たち、又それを「売る」女たち。万事が金次第。希薄な人間関係、エチケットの欠落、モラルの喪失、治安の悪化等々、口を開けば唇寒くなる限りです。大体この不景気にキャバクラがやけに流行るのも「愛の不毛・貧困」の風俗的な表れだと思います。彼らはそこで金まみれの「疑似恋愛」をする訳ですが、辺り一帯は仮設の「劇場都市」と言ってよい様相を呈します。愛は金でしか買えない時代になってしまったのでしょうか。私も会の運営で「素人(しろうと)」の女性に声を掛けてみたところ、いきなり時間給を要求された事があります。「合法的」と認められる出会いの場が限られている日本では、いつでも結婚相談所が大はやりですが、私は今までああいう所では美人はいないだろう、美人は周りがほおっておかず相談所に入る必要も無いのだから、居たらサクラだろうと思っていました。ある日電車の座席に座っていると、隣に座っていた女の子二人が話をしていて、男にもサクラが居ると言っているのです。実際のところ結婚相談所に関連して考えられないような被害相談が毎日のように消費者協会等に寄せられているのです。ところで日本人は隣の人がどんなに近くに居ても話しなどしようとしません。先にも記しましたように、タテ型の点と点を線で結ぶ集団主義社会では、違う集団に属している異なる者同士が話をする事、つまり横のつながりが出来ないのです。私などもし隣の奥さんに親しく話しかけようものなら「変態」とみなされ、地域から追放されてしまうでしょう。ですからその延長として人を紹介するという習慣もありません。独立した人格同士が紹介しあって新しい横型の集団を作る事などまず不可能でしょう。これもフランス人から聞いた話しで恐縮ですが、当地ではパブのような所で隣に居る知らない者同士が酒を飲みながら語り合うなどという事は当たり前で、例えば電車に乗っていて偶然男性の目から見て気に入った人が見つかると「正式に」語りかけ、女性の方も「そうですか。それではいついつお会いしましょう。」と言う事になるのだそうです。日本でもナンパと呼ばれて似たような事が若者の間で行われていなくも無いのですが(最近めっきり減って、出会い系サイトに切り替わっています。)、良風美俗に反するものとして、非合法の範疇に属するものです。しかも偶然にと言うものではなく意図的に行われるものです。フランス映画で一世を風靡した美男男優ジェラール・フィッリップ主演の「夜毎の美女」では主人公が「仲間」から馬鹿にされたり助けられたりしながら、夜毎夢の中で美女達に出会うといった内容のものですが、そこではお互いに仕事も立場も違うのに主人公の周りに身近な地域のグループが存在し、しかも一人が誰かと知り合うと直ぐに仲間の全員に一人一人紹介しているのです。これを観て私は映画の本筋はそっちのけで、ああ何と羨ましい人達なんだろう、何と羨ましい社会なんだろうと思ってつくずく嘆息した次第です。日本ではこのような柔構造を持たず、「社会主義的」に一人一人が分断され、それが又集団ごとに再構成されている社会だからです。ヨーロッパやロシアによく有るコンパートメント方式の鉄道に日本人同士が乗り合わせたとしたら、互いに顔をあわせても何日も挨拶もせずに座っているのではないでしょうか。

日本人は薄愛主義者なのか
日本人が人間関係、ひいては人間を軽視している事は、私の体験からでも容易に想像できます。卑近な例ですが、私は一度知り合った人には毎年必ず年賀状を書くようにしています。しかしいつも返事が返ってこない人が相当数居るのです。私はこういう人達の気持ちがさっぱり理解できません。とすると私は日本人ではないのでしょうか。私が呼びかけているフランスのサロン・ド・テを模範にした au bon cafe にしても、「新しい人間関係を作ろう、交際社会の実現を!」と真正面から呼びかけても人は来ません。何か得をすると思わせるイベントのようなものを企画して、いわばそれをエサに形から入ってもらう事にしています。人を紹介してくれと言っても居ないと言います。しかしそれは本当のことです。個人的に誘い合える相手もいないで、社会的には「点」として生きている人達があまりにも多いのです。だからこそこのような会を開く社会的意義が有るのですが、約束破りは常習犯ですし、決められた時間に遅れない人達は居ないと言い切ってもいいでしょう。このような会に一応足を運ぶ人達ですらこうなのですから、社会の深淵たるやいかばかりなものなのでしょう。長い人生の幾星霜にも耐えてきた私のような人間からすれば、真の男女関係など何処に有るのかと思ってしまうのです。相手を尊重しないという事は、自分も尊重されないという事なのです。喫茶店やレストラン、特に広いスペースの取れる昼間のファミレス(ファミリーレストラン)へ行くと、各年代別の幾つもの女性グループによって「占領」されている光景に出くわすことがまま有ります。彼女達は笑いさんざめきながらおしゃべりに夢中で、いかにも幸福だとばかりに顔を輝かしています。彼女たちがなぜ集まり、どのような話をしているのか知る由も有りませんが、雰囲気からして余人の入り込める隙間は全くありません。昼間から遊んでいるのだから出身「成分」が高いのかなと推察するぐらいなものです。「地上の楽園」とはこのような所を言うのかと、思わず嫉妬してしまいます。それ程彼女たちは楽しそうにしているからなのです。日本社会の均質性からして、おそらく日本中の都市が、このようなホモセクシャルなグループによって埋め尽くされているのでしょう。それと反対に男が集まって楽しそうに話している光景など見たことがありません。「アーア、可愛い女の子の一人や二人居てくれたらいいのに・・・。」で話は終わってしまうのです。男性同士は根本的に信義・信頼で結びつくものですけれども、最近では如何なものでしょうか。この様な所でつい私は楽園とは名ばかりの、男女離別の「強制収容所」を連想してしまうのです。古典ギリシャ時代、プラトンは男女の祖先を、アンドロギュノスという背中でくっついた両性具有のものとしました。お互いに自由を欲したので、神はこれを二つに分けたとしたのです。でもやはり寂しくなりお互いがお互いを求め合うようになったのだそうです。しかし大哲学者プラトンの権威を持ってしても、日本女性の男性を求める淡白さ、インセンティブの無さを否定することはとうてい出来ません。個人でもで暮らしやすい生活環境、男性の無気力さ加減もその原因であるとも思いますが、このことが晩婚化・非婚化をもたらし、ひいては少子化という国の大問題にも繋がっていくのです。国は育児についての援助はしますが、それ以前の問題については何も言いません。強制結婚をさせるような国柄ではないからです。
 
結婚は社会構造が作り出したもの
しかし前々から指摘しているように、合法的な出会いの場の少なさ、自由の無さ、自発性の欠如、社交性の欠落、選択の幅の信じ難いほどの狭さなどを勘案すると、個人の本当の意思ではなく、結婚する人は「社会構造」により結婚させられている気がします。結婚していようがいまいが希薄な交友関係は、個人が社会に組み込まれて、またそれぞれに隔離され、個人同士の付き合いに欠けるせいでも有るのです。いずれにしろ交際社会の実現にとって、夫の妻に対する(ないしは妻自身の)狭量さ、同好会志向、女性だけの排他主義、此れこそが「敵」であり「悪の枢軸」なのです。話は元に戻りますが例えば英国では、社会的なことと社交的なことは同じ「SOCIAL」という言葉で言い表します。社交とは基本的に見知らぬ人と知り合いになることなのです。私はそのような習慣のないところに諭吉が述べたような社会は生まれないのではないかという焦燥感にいつも駆られています。それに比べてアメリカ人は大変社交的です。アメリカ人の大好きなパーティーは個人の家で行なわれるものでも、見知らぬ人々が知り合う場所になっています。日本人のように「ウチ」「ソト」を区別しないのです。日本で欧米流のパーティーが開けない理由がここにもあるのです。欧米では人が集まれば宗教などの一部の例外を除いてよく議論します。ディベートという議論を学校で教えられもします。彼らの意識には個人主義の思想が浸透していて、人は皆それぞれ違う意見を持っており、それをぶつけ合ってより良い考えに到達する事が社会を進歩させるのだと信じているからです。イタリアでは広場に三々五々人が集まって知らない人同士議論をし、又帰っていくと聞きます。都市構造そのものが出会いと会話の場になっているのでしょう。それでは日本ではどうでしょうか。だいたい議論と言うものをまずしません。特に社会的政治的な問題はタブーです。集団主義(全体主義と言ってもいいでしょう。)をとる日本では同じ集団内の人間同士、意見が違ってはまずいからです。教養が有り、一家論を持つ人間にとっては、実につまらない社会なのです。日本語学者の岩淵悦太郎氏は、日本には「広場の言葉」が無いと言っています。広場の言葉とは種々雑多な人々が集まり自由に会話が出来る環境が整い、それが保証されていて始めて存在し得る言葉と言っていいでしょう。整列させられ、初めから決められた意図でまとまっている集団では、有り得ない事です。又広場の言葉とは「自由主義社会の言葉」とも置き換えることも出来、それが無いという事は自由社会が無いという事、ひいては人間の根本的権利の一つである「自由」そのものも無いと言うことにも繋がり兼ねません。しかし社会は人が作るものです。決断力、行動力、道徳性の向上、責任感、内外を区別しない包容力、助け合いの心、個性の尊重(ミーイズムではない)、社会正義、公に尽くす心即ち公共心、努力や忍耐、探究心、そして一番大切な人と人との「愛」の尊重、これらの向上を通じて生きがいの持てる社会を再構築していく事は不可能ではないのではないでしょうか。市井の個人から政治家に至るまで、道徳律に照らして今何をすべきか考えるべき時なのです。逆に言えば人の心がメルトダウンしていく事が一番の懸念材料なのです。経済企画庁はすでに93年度の国民経済白書の副題に「豊かな交流・人と人とのふれあいの再発見」を挙げています。バブル経済のもとでの過度な消費に対する反省から、物質的な豊かさより、心の豊かさを重視しようというのがその趣旨です。私も「一人の友を持つ事は一つの幸せを持つ事である。」というテーマを挙げています。さまざまな交流を通じて多くの男性女性の友人を作り、長い人生を伴に歩んでいきたいものだと考えています。しかし理想は理想、現実は現実でもあります。わが国では人々が疑心暗鬼に落ち入り、人を信じようとしません。「お願いします。」と言おうものなら、自分が損をして相手が得をするのではないかと思い、腰が引けてしまうのです。ニュービジネスも含め、何か新しい事をやろうとするなら、必ず複数の協力者が必要になります。協力精神の欠如が日本にとって致命傷になりかねません。私はわが国が以前から指摘されている通リ、経済問題でそう遠くない将来破綻するであろうと言われている事はもちろん、このまま道徳的堕落が続けば、市民社会のレベルで少子高齢化も含めて自動的に自己崩壊に陥る可能性を捨てきれないと遺憾ながら危惧しております。
 
わが国が特殊な存在にならぬように
国運の発展衰亡は、その国の国民の精神的な力の総体にかかっているのです。歴史と言えば何か「見えざる手」によって動かされているように感じていらっしゃる方が居るかもしれませんが、決してそうではありません。歴史は人が作るものなのです。例えばギボンの「ローマ帝国興亡史」を見れば一目瞭然ですし、日本でも幕末、封建制度を打ち倒し、廃藩置県と言う革命的なことが出来たのも、社会から澎湃としていわゆる「憂国の士」が輩出し、彼らの使命感に基ずく所大だったのです。何でも構いません。社会を何らかの意味で変えようとする試みは悉く水泡に帰し、例え生まれたとしても周りから見て異質であると言う理由で、育つべき芽を摘み取られてしまいます。やがて日本は世界の時流から完全に取り残されてしまい、特殊な存在となってしまうのではないでしょうか。我々は自由に旅行、特に海外旅行が出来ますが、見物・買い物・食事・漁色をした後で、我々は異国から何を学んで来ているのでしょうか。私は、フランスへ五回も行きながら、社交の社の字も学んでいない女性を間近に見て落胆しています。竹村健一氏は「日本の常識は世界の非常識」と言われましたが、日本社会の非常識振りを客観的に理解している人が、現在日本にどれほどいるのでしょうか。私は年もわきまえず「社交家」を名乗っておりますが、社交家(むしろ色事師)と言えば往年のその道の大家、フランスのカザノヴァ(イタリア人)を想起しますが、あのカザノヴァでさえ現代の日本に来れば、単なる浮浪者に身を落とすしかないでしょう。彼は楽しい社会に住んでいたから楽しく振舞えたのです。私の存在自体「井の中の蛙」ですから、私の知りえない別の世界が有るのかも知りません。しかし私は現代の日本社会の軽薄さにあきれ返っており、「平均的日本人」に全く嫌気がさしているのです。先立つものに事欠き、晩節を迎えて最後の悪あがきをしている今日この頃の私ですが、ここに「男女打ち交わりて遊戯談笑のススメ」を記し、みなさんにご提案する次第です。

 
社交家・風俗研究家 ケーシー松原

 

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